としょがかりメンバーが1年で100冊の読破に挑む……という企画です!!
期間は今年度中(平成29年4月1日~平成30年3月31日)とします。
読了した本と感想は、順次ページに掲載していく予定です。このページの下段にあります画像をクリックしてください。(読破順に感想をまとめていきます。)
特にテーマは決めず、としょがかりメンバーがそれぞれ好きな本を読んでいこうと思います。
また、「この本が面白い。」「是非読んでほしい。」など、おすすめの本がありましたら、是非コメント欄にご記入ください。
皆さんと感想を共有しあったり、互いに本を紹介したりと、様々な形で楽しめる企画になれば幸いです。
これまで「ほんとしおり」の「本棚拝見」というコーナーの取材で何人かの学識ある方たちの本棚を見せて頂いたが、ほぼ全ての方の本棚にあった本がこの『清貧の思想』。初版は1992年。私は小学生だった。(年がばれる。)ちょうどバブル景気が終わりを迎えようとしている時代。それまでの浮かれた日本に違和感を感じ、日本人本来の思想に帰ろうという人たちが多かったのかもしれない。
本に書かれている通り、著者は戦前、戦後復興、そして高度成長期という三時代を見てきて、日本人の変容を危惧し、また欧米人が持つ日本人像(お金の話しかしない、景色を見ずにカメラを向けるなど)を訂正したいという思いで書かれている。
西行法師や良寛、本阿弥光悦といった人たちを例に挙げて、彼らがいかに金品の執着やや利己から離れ、清く心豊かに生きたかについて書かれている。また、後世の人達が彼らの生き方を良しとし、それを今まで伝えてきた日本人の「粋」についても強調している。
この本に挙げられている人たちのことを、私はあまり知らなかったが、彼らの言葉やエピソード、周りの人の話などから、その人物像が立体的に見えるのがいい。また彼らの屈託なくただ風雅な生き方に「隣の変わった優しいおじさん」のような親近感を持って読むことが出来た。
初版から25年。今は「エコ」や「スローライフ」「断捨離」などの言葉もあり、この本にある考え方も少しずつ定着している気がする。(というか、著者に先見の明があったというべきか)それでも、人間やはりどうしても欲に抗えない時がある。そんな時には先人たちの生き方を考えてみるのもいいのかもしれない。
あすなろとは、やがてヒノキになろうと思いながら、それが叶わぬ木。叶わなくても、明日(あす)こそはなろうなろうと頑張る木。
この物語の主人公は今生きているとしたら、ちょうど100歳くらい。自分の祖父の時代にあたる。この物語の時代は多くの「あすなろ」達がいたようだ。しかし、時代は軍国ムードが高まるころ。あすなろ達は必死に上を見ようとしながらも、時代の波にのまれて夢を果たせなかった。
頼りなく、決してあすなろとは言えなかったなかった主人公も、周りのあすなろ達に憧れ、影響を受けながら成長し、あすなろ達の思いは主人公にもしっかり引き継ぎ、終戦後もたくましく生きる姿を見せて物語は終わる。
今の日本は高みを目指さなくてもある程度満足な生活ができるようになり、冒険するリスクより安全な道を選ぶ風潮も強い。「向上心」なんて言葉も先生のお説教や修辞句のように聞こえてしまい、実態を得ない言葉になりつつある。
終戦の焼け野原を前を向いて歩いた主人公の思いはどこに消えてしまったんだろう…。
答えは分からないが、それほど遠くない昔の日本で、あすなろ達が必死に生きていたことを胸に刻んでいこうと思った。
岩手県の沿岸部を舞台に、地方都市の閉じた人間関係の中で起こる物語。そこへ、東日本大震災の話がからんでくるが、いわゆる「おしつけがましさ」のようなものは一切なく、ぽつりぽつりと主人公とその周囲の人が体験した出来事が語られていく。説明的な描写が少ない点が、かえって読み手を立ち止まらせ考えさせるような印象を受けた。また、「釣り」のシーンをはじめ、情景描写では、岩手の美しい風景と、自然の力強さを感じることができる。選考委員の高樹のぶ子氏の「言葉を掴んでくる視力とセンスに感服」という言葉がとてもしっくりくる。
書簡形式の小説で、男女二人のSNSでのやりとりが交互に記載されていく。物語は、30年前に結婚式をすっぽかされた男性が、SNSを始めたことを契機に、婚約者だった女性を見つけたことから始まる。当初はサイトを通じて当時の懐かしい話に浸っていた二人だったが徐々に雲行きが怪しくなっていき……。という感じ。内容的に少しパンチが効いているので、賛否がはっきり分かれる作品だと思うが、少ないページ数で感情を揺さぶられることは間違いないので、刺激のある読書がしたい方は読んでみてはいかがでしょうか?
山奥の研究所で発生した謎の爆発事故。研究員の夏樹は一命をとりとめるも、記憶を一部失っていた。他の研究員たちと脱出を試みるが行く手には、凶暴化した人々が……というバイオハザードもの。冒頭から終わりまで、物語の先を読みたくなるような情報がテンポよく出てくるので、一気に読めてしまう。中身の濃いバイオホラーを短時間で読みたいという人にお勧めの一冊。
夏になると読みたくなる小説といえばこの一冊。浴衣姿で雑司が谷の墓地に向かう「先生」の後ろ姿のイメージが喚起されてしまいます。そして、「先生」と、振り返るはずもないその人にすがり声をかけたくなる。確か高校の国語の問題集に出ていて知った作品ですが、これまで何度か読み、そのたびに違った感慨で読めるというのも、名作の証なのでしょうね。
作品を構成する「先生と私」、「両親と私」「先生と遺書」の3部それぞれが深い味わいがあります。「両親と私」は、私も両親がだんだん老いてくる年代になり、考えさせられるものがありました。父の死に際して意外なほど冷静でありながら、遺された母を心配するという複雑な気持ちは真に迫っていて、これを読んだ後、なんとなくいつもより親に優しく接しようとしていた自分に気がつきました。
どんな善人であっても人は時と場合で簡単に悪人になることもあるという、この作品の主題は読むたびに唸らせれます。「先生」がそういう考えに至ったのは、主人公が先生に期待するような深淵な「思想」としてではなく「先生」自身の「生きた経験」からのもの。先生は自分の経験したことを「血潮」と表現している。その言葉は「先生」の裏切りによって自殺したKが流した「血潮」と繋がっている。Kの苦しを「先生」が受け継ぎ、「先生」の遺書を通して若い主人公へと受け継がれていく。
主人公が先生の遺書をどう受け止め、また、それを抱えてどう生きたかは分からないけど、時代はちょうど明治が終わり、大正へ移るころ。「先生」の「血潮」は明治の精神と共に主人公の心にも残っているのではないかと思います。そして、作品をとおしてこれからも私たちに受け継がれていくのでょう。
事件編の緊張感と日常編のゆるゆる感のバランスがとても絶妙で、読んでいて飽きないテンポの良い作品。
探偵の型としては、珍しい分離型で、語りは兄が、頭脳労働は妹が担当する。世間一般で探偵だと思われている人物と、実際に解決する人物が違うという点だけを見てみると、『名探偵コナン』のコナンと小五郎の関係に似てなくもない。
兄が語りを担当するには二つの理由あってのこと。一つは、妹がうまく『しゃべれない』ため。もう一つは、妹を守るため。これだけだと訳がわからないと思いますので、気になった方は一度読んでみてください。シリーズ化していて、現在二巻まで刊行中です。
<こんな話>
もういつ死んでもおかしくないという病から回復した34歳の小説家がある日、散歩の途中で偶然みつけた文房具店で、妙に惹かれるポルトガル製のノートを手にいれた。そのノートは彼の創作意欲を再燃させ、ある物語を書き始める。現実の世界と小説の中の世界と、小説の中に出てくる小説の世界(いわゆる劇中劇)。この3つが奇妙に符合し、それに引っ張られるように、彼の運命は奇妙な道をたどっていく。
<言葉の力とは>
小説や詩で書かれていることが現実化することについて、この作品では「言葉の力」と表現されている。作家や編集者など本を作ることを生業にしている人にとって、物語は、友達のように寄り添うべき存在であり、時にはその人自身を癒してくれる存在でもある。しかし、あまりにのめり込みすぎると、この作品のように「言葉の力」によって作者自身が物語の渦に巻き込まれてしまうこともある。おそろしや。
<人類の悲しい運命>
主人公が書く小説の中で、地下に隠された「歴史保存局」のエピソードが出てくる。カンザスシティのとある田舎の廃線の下に、世界各国の、いろんな時代の電話帳がならんだ図書館がある。戦争で絶望的な状況を目の当たりにしてきた男が、「人類の終わり」の記録を残すために作ったのだ。この男が戦争で見てきた「人類の終わり」は、現実の世界で主人公の妻が受けたひどい仕打ちや、文房具店主の暴言と重なっている。人間の残酷さやそれに抗えない無力な人々。それを記録するために男は電話帳を集め、主人公は小説を書くのだろう。読み手である私たちに目を背けるなとでもいうように。なんとも暗い作品だが、オースターの絶妙な語りですらすら読むことができた。
「螢草」とは、露草の別名でもあります。
女中の菜々は、
当主、奥方、二人の子ども達のため、彼女は日々懸命に働きます。
奥様の病死、
そんな健気でひた向きな菜々に、幸せの螢草は咲くのでしょうか。
最近読書から足が遠のいていましたが、100冊マラソンの企画を機に蔵の中
の本を手に取ってみました。
まず最初に手に取ってみたのは、現代の歌人・俵万智のエッセイ集。遠い昔
に国語の教科書で紹介されていた現代歌人で、いまだにサラダ記念日の短歌だ
けは覚えています。手に取るとかわいらしい柔らかなタッチで描かれた表紙が
目につきます。おまけに短編集なので、読書から遠のいていた私でもサクサク
と読み進められました。
この本では、短歌や本に関する考察や、日常のふとした場面が切り取られ短
編集となっています。また、高校教師と歌人の二足の草鞋から、高校教師を辞
めるという人生の選択をした際のお話も収録されています。
短歌は日本に昔から伝わる、わずか31文字で表現される世界。短歌に触れ
ることにより日本語の奥深さを感じ、また自分の感性を少しずつ磨きいていき
たいなと感じました。
「魔性の女」に青春を翻弄される19歳の「僕」。
皆さんの周りには"魔性の女"と囁かれる女性はいますか? 頬にホクロのある、ブルジョア気取りの妖艶な彼女。病床の「僕」
その岡倉とも関係した疑惑あり、最後は「僕」
BGMにヨハン・シュトラウスの「青きドナウ」
将棋のプロを目指す新進棋士奨励会三段の塚田裕史は、気が付くと戦場にいた。どうやってここにきたのか、記憶はおぼろげだった。明らかに現実とかけ離れた暗い空間で、塚田は赤軍の王将として、敵である青軍と戦わなければならないと唐突に告げられる。
なぜ自分は戦わなくてはならないのか?そして、この戦場、ダークゾーンとは何なのか?戦いを進める毎に、塚田は少しずつ記憶を取り戻していくが、その度に謎は深まる。
異空間の非日常性と、棋士ならではの戦略的思考が魅力的な一冊なので、久しぶりにエンタメを読みたいという方に。
資生堂の花椿文庫から、『心が高地にある男』。翻訳は柴田元幸。
アメリカの田舎。ある日、年老いたラッパ吹きが、水を恵んでくださいと、少年の前に現れる。その老人は言う。「心を高地に置いてきたんだ」と。
「心を高地に」という言葉から、読み手である私の心は、「東京スカイツリー」で検索した時のグーグルアースのように、スコーンと高地のある一点に舞い降りる。そこには、ラッパ吹き老人のかつての暮らしがあり、家族や友人がいて、乞わなくても好きなだけ水が飲める老人の姿が見える。しかし、それらの生活は全て老人から奪い去られてしまった。
わずか数文字の言葉から、アメリカの埃っぽい田舎と、どこかの牧歌的な高地を往復し、老人の悲しむべき運命を思う。同情すら覚える。少年よ、早くこのかわいそうな老人に水を。
しかし実は老人はとんだ図々しい男。ラッパがうまいのをいいことに「ご近所さん」を集めてラッパを吹いては食べ物を得て、少年の家に17日間も居座り、実は老人ホームから逃げてきた男だったというオチがつく。
なーんだ、という結末だけど、この作品の魅力はといえば、登場人物みんな「悪気がなくてたくましい」ということだろうか。老人はただただ食べ物が欲しいだけ。少年の父は働かないことを悪びれず、食料品のおじさんは「理」よりお金と家族が大事。「ご近所さん」はラッパが聞けるなら食べ物なんて惜しくない。誰もがズル賢いのに、だれも悪いように書かれてない。あっけらかんとした感じ。人間が生き延びていくにはこうでなくちゃねという気にさせられる。唯一、少年だけは自分のしたことに後ろめたさを感じているように思う。でも、老人との数日が、少年を少し変えたようだ。そこに希望を感じさせながら物語が終わるところがいい。
もう一つの魅力。それはやはり最初に触れたアメリカの田舎から高地への旅。物語の舞台に立てることは小説の面白さの一つだと思うが、「心を高地に〜」とう言葉は私の心を軽々とと高地に飛ばしてくれました。気持ちがいいくらいにスコーンと。
最近、心が同じ場所にいるなと思っているあなた、是非この作品を読んで心を高地に飛ばしてみませんか。
労働者松戸興三が、樽から桝へセメントを移していると、
セメント袋を縫う女工が送った、
ぜひ一度お読みください。
現代作家のうち最も前衛的な小説家は誰か?……もしそう聞かれれば、私は木下古栗の名前を挙げることになるだろう。凄まじい筆力・文章力を持つ一方で、中身としては大声で話すことが憚られるようなものが多く、かつ、読んだら決して忘れないような強いインパクトを与える作品を執筆しているからだ。
一部のマニア(「フルクリスト」と呼ばれる)に好まれるような尖った作品をデビューから12年もの間、絶えず書き続けているのが作家、木下古栗だ。
そんなマニアックな作家の作品の感想をなぜ掲載しようと思ったか。それは、この『生成不純文学』が「文学とは何か?」という、ある種根源的な問いに触れているからである。
「文学」について、作者の鋭い洞察力と圧倒的な文章力で書かれているのは、ほんの数ページだが、それだけでもこの本を読む価値があると思うので、是非オススメしたい一冊。
SF作家の想像力は凄まじい。表題作から最終話まで、これだけ質量のある宇宙空間を物語の中に構築できる想像力、筆力に驚かされる。
また、三話一組の構成も面白い。様々な角度から、作者の想像した宇宙や、そこに住む人々、文明を楽しむことができる。一番のお気に入りは最終話の「衝突」。最後までクリムヒーンを説得し続けたアッシュ船長の胸中を思うと寂しさがこみ上げてくるが、同じ分だけ勇気をもらえた気がする。
思わぬところで、傾聴、コミュニケーション、忍耐力の大切さを認識させられた。異文化コミュニケーションの教科書としてもおすすめの一冊。
「物を買うことは鬱を晴らすことである」という思いに駆られた作者が、いろんな物を買っては絶望するという不思議なエッセイ『バイ貝』。作者の試行錯誤はむなしい結果に終わりましたが、その続編がこの『珍妙な峠』という作品です。
最初は、『バイ貝』と同じくエッセイ形式で、作者の日頃の「バイ貝」ぶりが自虐的に描かれていましたが、途中で流れが大きく変わり、「珍妙な峠」という不思議な世界に迷い込むという小説に変わるという展開には衝撃を受けました。町田先生、このめちゃくちゃぶり、さすがです。
珍妙な峠をさまよいながら、羽釜を買ったり、パンを焼いてみたり、ホームパーティに憧れて豪邸(実は欠陥住宅)を買ってみたりするけれど、何をやっても報われず、むしろ出口のない峠でもがくという話。
何かものを買うということは、新しいものを得るということで、そこから新しい希望が見出せるような錯覚を人は起こしてしまいやすい。でも本当にそうなのか。自分が手にした希望は絶望の始まりかもしれない。そんな不安が、読んでいくうちに頭をよぎりました。主人公と同じように、人はみな珍妙な峠をさまよい、欲望に転がされ続けているだけなのかもしれないですね。知らないだけで…。
怖いです。
↓↓前作バイ貝はちゃんとした(?)エッセイです。
「りんごで鮭を釣る話をきかせよう」と、ある船乗りが"僕"
舞台は小樽。
これが船主のからくりで資本家によくある手なのだ。
作者の林房雄はこの作品でプロレタリア作家として知られるように
昭和4年に発行された「新進傑作小説全集」に収められている、
障害のある息子を抱えた実業家の母親。
村人達は年貢を免除され税金のない小学校に通わせてくれる若い領
都会にも田舎にも人情の美しさはないのだと思った母親は障害者の
母親の恩情をないがしろにされ、
馬醉木、白バラ、
よしもとばななさんの短編集。主人公たちに共通するのは、みんなから「さきちゃん」という名前で呼ばれている女性であること。呼び名の音のイメージは、その人らしさにも影響すると思いますが、(例えば「あいちゃん」と呼ばれている人は「あいちゃん」らしく、「けんちゃん」とよばれている人は「けんちゃん」らしくなるというように)この本の中の「さきちゃん」達もやはりさきちゃん然としています。行方不明の友人を心配したり、薄情な肉親に囲まれたり、双子の兄を亡くしたりと絶望的な状況に追い込まれるさきちゃんたちですが、周りを少しでも良くしようとみんなを引っ張るけなげなさきちゃん。周りから「さきちゃん、さきちゃん」と呼ばれる度に、さきちゃんとしての役割を果たそうと奔走する。そんなけなげなさきちゃんたちに、心からエールを送りたくなります。短編の中でおすすめは「鬼っ子」。人が作り出す闇の部分。その圧倒的な恐ろしさと、その中から少しでも希望を見出そうとする「賢明さ」が描かれています。不安定な世の中だからこそ、周りを大切にしつつ前を向いて歩いていく、さきちゃんたちのような人が必要なのかもしれませんね。
『きょうの猫村さん』の作者ほしよりこさんが描く、5人のさきちゃんたちの絵も「さきちゃん!」と声をかけたくなるくらい素敵です。(やまね)
……というように、前評判を聞いてから読んだ作品は、大抵ハードルが上がっていて、思ったほど面白くなかったなどと思うことが多い。
けれども、この小説に限って言えばそんなことはなかった。
音楽の才能を与えられた神の子。母親の死以来、ピアノを弾けなくなってしまった音大生。音大出身だが、現在楽器店勤務のサラリーマン……。芳ヶ江国際ピアノコンクールを舞台に、魅力ある登場人物たちよって繰り広げられる青春群像劇は圧巻の一言。
一人ひとりの話でも独立した小説が書けそうなほど内容が濃く、ページをめくる手が止まらなかった。
また、演奏される一曲一曲に対する描写がとても丁寧で読み応えがある。驚くべきは、恩田陸さんの言葉の引き出しと、使い方のバリエーションの豊富さで、音楽を(音や画像などを使わず)文章だけで説明する際に、この本は教科書のように使えるのでは?とも思った。